大銀杏伝説
伝えられている大銀杏
峯ヶ岡八幡神社の境内、本殿に向かって右側に、推定樹齢700年の大きな銀杏の古木があります。
この大銀杏は、当社に参詣した若狭の八百比丘尼がひと休みした後に置き忘れていった杖が根付いて成長したと伝えられています。
また、この大銀杏には新羅三郎義光が必勝祈願したと伝えられています。義光は、当社創建と伝えられている源経基の玄孫にあたります。1083年、奥州陸奥国で後三年の役が起こりました。これは義光の兄、八幡太郎義家と清原一族との戦いでした。
兄義家が苦戦を強いられていることを京都で聞いた義光は、兄を助けにいこうとしましたが、朝廷からの許可が下りませんでした。しかし義光は、許可なく密かに兄の元に馳せ参じます。
その途中、当社に参籠し、戦勝を祈願しました。すると、二羽の白鳩が大銀杏にとまり、金色の幣帛に姿を変えて、兄が戦っている奥州の方角へ飛び去ったのです。
弟義光の来援をうけ、兄弟で奥州の先人を駆け回っていると、たびたび金色の幣帛が空を舞い、ついには清原一族に勝つことができたといいます。
大銀杏の「乳銀杏」
勇ましい伝説ばかりではありません。
当地の人々は、この老木を「乳銀杏」と呼び習わしていました。
この大銀杏の枝や幹からは、乳房状の突起が垂れ下がっています。
この突起を信仰対象として、妊婦さんや授乳中のお母さんが、お乳の出が良くなることを祈願したのです。
とても霊験あらたかであったと伝わっております。
僧形八幡坐像と胎内願文伝説
峯ヶ岡八幡神社の祭神は、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱です。古文書によると、神座について、左座は仲哀天皇、右座は神功皇后、正面が応神天皇であるとされています。
この応神天皇の御神体が、本殿にお祀りしている僧形八幡坐像です。本坐像は、二枚の檜材の寄木造りとなっており、高さ七寸九分(約24cm)、膝幅八寸四分(約25cm)ほどの木像彫刻です。この像は、袈裟をまとった僧侶の姿です。右手に錫杖を、左手にお経を書いた巻物を持ち、台座に坐し、光背には金色の日輪が付けられています。さらに、像・台座とともに極彩色に彩られています。造られたのは、鎌倉後期とされています。
鎌倉時代、坂東武者は、八幡・鹿島・香取・諏訪などの武神を多く勧請しました。なかでも八幡神社は、源氏の氏神でもあり、現在の関東地方一円に数多く勧請されています。また、八幡様は、神仏習合の先駆として、奈良時代から仏教の守護神として崇敬され、像形の八幡様として、この時代、多くの僧形八幡像が造られております。
八幡様は本地垂迹説によると、阿弥陀如来の仮の姿とされてきました。そのことから、この法体の坐像は、阿弥陀如来の形だとみられております。
さて、本坐像は、胎内がえぐられて、頭部がはめ込み式になっております。明治15年(1882)、この胎内から、約36点の願文や経文が発見されました。
願文には、弘安5年(1282)の元号がみられ、鎌倉後期の造立を裏付けるものといえます(弘仁8年(817)造立という説もある)。
いずれの願文も、現世の安穏、子孫の繁栄、親の孝養、極楽往生から、所領安堵の願いや訴訟の勝利祈願など、どれも切実な願いであり、鎌倉時代の人々の熱烈な信仰心を伺うことができます。
この像形八幡坐像と胎内願文は、ともに埼玉県指定文化財となっております。
力石伝説
力持ちが担いだとされる力石
社殿の右側にある大銀杏の根元に、15個の力石があります。力石は、楕円形の表面がなめらかな重い石です。江戸時代から明治時代にかけたは神社の祭礼において、この力石を使用した力比べがごくごく普通に行われていました。
峯ヶ岡八幡神社には、60貫目(225kg),30貫目(112kg)、35貫目(131kg)といった力石があります。ただ、残念ながら、当社には年月日の入った力石は一個も残っておりません。
しかし、その中に「指石三十五人目 三宮宇之助 当村常次郎 石工□(不詳)」という力石があります。
この力石を持ち上げた三之宮(越谷市)出身の宇之助は、(1807~1854年)当時(江戸後期)有名な力持ちで地元の久伊豆神社(越谷市)や三之宮の香取神社また地元だけでなく、深川八幡・川崎大師・鶴岡八幡宮・江ノ島神社等に彼の担いだとされる力石が分布しており、宇之助が当時東日本を代表する力持ちとして広い地域で活躍していることが知られています。